スペイン現代史とフットボール「バルサ、バルサ、バルサ!」読了!

バルサ、バルサ、バルサ!

先日、書店で「バルサ、バルサ、バルサ!」とタイトルのついた書籍を見つけました。発行は2007年と9年も前ですが、書かれている視点が面白かったので購入しました。

サッカー視点からFCバルセロナのクラブや戦術、選手について書かれた本は多くあります。特に、ペップ監督以降は日本でのバルサの知名度も上がり腐るほどの書籍が発行されました。
そのほどんどはバルサ絶賛モノです。私は今さらそんな美辞麗句で包まれた本を読みたいとは思いません。

しかし、この「バルサ、バルサ、バルサ!」は副題に「スペイン現代史とフットボール」とあるように、スペイン国内におけるカタルーニャの政治的、歴史的な側面からバルサを見た書籍です。原書タイトルの「バルサとフランコ体制。カタルーニャにとって決定的だった数年間の年代記(1968〜1978)」がこの書籍の内容を簡潔に表しています。

カタルーニャが徹底的に弾圧されていたフランコ独裁体制の時代。バルサがカタルーニャでどのような位置付けでどのような役割を経てきたのかがわかりやすく書かれています

大変興味深く読みました。
バルサを理解するにはサッカーだけでなくカタルーニャの政治的・経済的側面からも見なければならないと考えていました。
この書籍で私が今まで断片的にしか知らなかったスペイン内戦からフランコ独裁政権時代のカタルーニャ弾圧とバルサの歴史を知る事ができました

独裁時代バルサは生き残るためフランコ派を執行部に入れた事も知りました。
そのような中でも独裁政権にベッタリにならなかったのは反フランコ派執行部の政治的パワーバランスを熟知した動きでした。
目立たないようにしながら確実にカタルーニャ化の動きを進めていたバルサ。過去にも侵略され圧制の中で生き抜きカタルーニャ文化を存続させてきた民族の経験が生きているようです。
日本のような圧政の中での解放運動がない民族にはこのようなたくましさは生まれないでしょう。

筆者はバルセロナ大学の現代史教授、カルラス・サンタカナ・イ・トーラス氏。専門がスペイン現代史だけあって歴史の中でのバルサがよく描かれています。
フランコ独裁体制での文化的抵抗運動、カタルーニャのアイデンティティ回復のための運動にバルサがどのような役割をしたのか。その中で、バルサが率先して活動して獲得した部分とカタルーニャのアイコンとしてカタルーニャ人から求められた役割を担った部分がありました。

これがスポーツライターだと独裁政権=加害者で悪者、バルサ=被害者で良者とヒーロー物のような書き方になってしまう所です。しかし、それでは史実的に正しくないわけで、そのような意味からもスペイン現代史が筆者というのは適任です。

1968年以前

スペイン内戦の銃弾が残る「サン・フィリッポ・ネリ広場」
スペイン内戦の銃弾が残る「サン・フィリッポ・ネリ広場」

副題では1968〜78年となっていますがその前の時代も書かれています。
第1章 クラブ創設からフランコ体制全盛期まで(1899〜1960年)
第2章 夜明け(1961〜1969年)
と2章も割り当てられています。
これは、すでにその時代にフランコ政権側との事件が発生しているからです。

1936年、当時のバルサ会長ジュゼップ・スニョル氏がフランコ軍に銃殺されるとの出来事が発生します。
これはスニョル会長が誤ってフランコ軍の支配地域に入ってしまったのが原因でバルサの会長だったから銃殺されたわけではないと言うのが歴史的事実らしいです。
でもその後のフランコ独裁政権のカタルーニャ弾圧により、スニョル会長銃殺がカタルーニャ人として感情的に許せない事件の切っ掛けになった事は確かです。

なのでカタルーニャとカスティーリャ(スペイン)の対立の歴史の始まりとして触れないわけにはいけない出来事です。

レアル・マドリーとの関係がサッカーから政治に

カンプ・ノウスタジアムのピッチに出る手前にある礼拝所
カンプ・ノウスタジアムのピッチに出る手前にある礼拝所

スペイン内戦からフランコ独裁体制の当初はまったくカタルーニャに自由はありませんでした。
そのような中でカタルーニャ人の独裁政治へのはけ口がサッカーでした。
政治的には独裁政治を非難する事は不可能。でもサッカーというスポーツ内では独裁政権の象徴としてのレアル・アドリーを「罵倒」する事は可能でした。サッカーが代理戦争と言われるのがここにあります。

しかしそれは政権側からすると政治批判へのガス抜きになると同時にサッカーが切っ掛けとなり反政治的行動に発展する可能性もある諸刃の剣ともなります。
この書籍によると、カタルーニャではガス抜きではなくサッカーの不当な判定により反独裁政権、カタルーニャのアイデンティティーが生まれて来たようです。

その最初の出来事が1943年に行われた「総統杯(現在の国王杯)」

バルサはレアル・マドリーに対して11対1と言う屈辱的敗戦をします。
しかしカタルーニャではこの試合はバルサが独裁政権側から強力な圧力と脅し、またカタルーニャ人の出場禁止などサッカー以外の要因によって起こったと記憶されています。
そしてこの試合が、バルサとレアル・マドリーの関係をサッカー以外の要素を含むようになったと言われています。
このようにカタルーニャでは1943年にすでにサッカーがガス抜きではなく政治的な意味合いを持っていました

その後も独裁政権側の「国民スポーツ局」と「スペインフットボール連盟」のバルサへの不当な判定が続きます。
例えば、
1953年、アルゼンチンのアルフレッド・ディ・ステファノ選手の移籍問題
1968年サンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで行われた「総統杯」決勝の「ガラス瓶のファイナル事件」
1970年総統杯での「グルセタ事件」

度重なるバルサへの差別。
これらにより、バルサ執行部の中のフランコ主義派にもカスティーリャへの反発が生まれてきます。

「グルセタ事件」では、「フランコ独裁体制の犠牲者としてのバルサ」との感情がサポーターだけでなく選手にも湧き上がり試合放棄寸前まで行きました。
また、サポーターはスタジアムだけでなくさらにランブラス通りで何千人の規模で明け方まで抗議行動を行いました。独裁政権下では考えられない行動をバルサのサポーターが行ったわけです。
当然サポーターは単純な審判の誤審レベルではなくその後ろの独裁政権の影がチラつくのに気付いています。そして必然的にカタルーニャ人としてのアイデンティティーが目覚めにつながります。

アグスティ・ムンタル会長時代

現在のカンプ・ノウスタジアム
現在のカンプ・ノウスタジアム

「グルセタ事件」が起こったのがアグスティ・ムンタル・イ・コスタ会長時代(1946年会長アグスティ・ムンタル・イ・ガルバルト氏の息子)です。
このアグスティ・ムンタル会長の時代にバルサは政治的・経済的に大きく動き出しました。
選挙で当選したアグスティ・ムンタル会長ですが、強力な支持基盤がなかったので脆弱に見られていました(独裁政権側からすると組み易し)。
しかし、「グルセタ事件」とそれに伴う出来事により選挙でのライバルで反執行部だったバレット氏がアグスティ・ムンタル会長支持に回りました。
これにより、バルサ執行部が一枚岩になりアグスティ・ムンタル会長の指導力が発揮できる環境になります。

その後アグスティ・ムンタル会長は反フランコ独裁政権、カタルーニャ主義化を前面に出すようになります。
カンプ・ノウスタジアムでのカタルーニャ語での放送、クラブ機関誌のカタルーニャ語の使用拡大等々。
当然、独裁政権側は圧力を加えますがカタルーニャ市民の動きとアグスティ・ムンタル氏の政治的駆け引きにより徐々に権利を獲得していきます。

そのような中で行われた1974年のバルサ創設75周年は大きな節目でした。
記念式典では独裁政権中枢の第4軍区総司令官がいる前で演説がすべてカタルーニャ語で行われます。
また、カタルーニャ人でチェリストのパブロ・カザルス氏の曲を演奏し顕彰するとの行動に出ました。カザルス氏は独裁政権に反対しフランスに亡命した演奏家。そのカザルス氏を顕彰するのは独裁政権下ではかなり困難の伴う行為です。

アグスティ・ムンタル会長がこのような独裁政治とのパワーゲームをできたのは独裁政権の弱体化と同時にカタルーニャ人のアイデンティティーが高まっていたに他なりません。

1978年以降

書籍はフランコ氏が死去し独裁政権が終演を迎える1978年で終わっていますが、カタルーニャとカスティーリャ間の火種は消えたわけではありません。
むしろここ数年はカタルーニャ自治政府は自治権の拡大だけでなく分離独立に要求を拡大しています。
そのような中でバルサも対応を試されています。ピケ選手のようにすでに独立運動を積極的に支持し行動している現役選手もいます。
カタルーニャとカスティーリャの問題は過去の歴史ではなく現在も続いている問題なのです。

ペップ元監督や「MSN」だけでバルサを知る事にはなりません。
「MES QUE UN CLUB(クラブ以上の存在)」の意味を知るにはカタルーニャとカスティーリャの歴史を知っておく事が必要がると私は考えます。